そらとぶへび

仕事・プライベートを通しての気づき、JavaやPHP、データベースやサーバの話などこつこつと書いていきます

数打ちをする大切さ

今から6、7年前、長期休暇をとって夫婦で長崎旅行の際に、波佐見の地を訪れた。
義兄が営んでいる飲食店で使用している白磁の器を制作している工房が近くにあるので、いい機会だからと寄らしていただく事になっていた。

そもそも旅行の計画をたてても、いつもその場でコロコロ変えるような行き当たりばったりな旅行なので、何時にいけるという保証もなく、玄関先でちょっとご挨拶だけできればという気持ちでレンタカーを走らせて、工房へ向かった。しばらく走ること数時間、目的の看板を見つけた。が、思わず一回通過してしまう。「ほんとに伺って良いのかな?こんなぺーぺーの若輩の夫婦が時間の約束もなくふらりと訪れてもよいものか」と。実は訪問先の方は県に無形文化財として評価されるほどの方なので気後れした。
とはいえ、はるばるせっかく来たし、義兄から伺う連絡も入っていることだろうし、そう機会があるものではない。引き返し勇気を出して車を停める。

工房の庭で草むしりをしている方がいた。庭師の方だろうか?とおもいきや、御本人だった。
嫁が「兄がいつもお世話になっています」と挨拶すると、「あれ、○○さんの妹さん?!」とすぐに気づいていただいた。そしてにこやかに工房へ迎い入れてくれた。


工房ではいろいろな話を聞いた。肩書のことなど意にもかけない気さくな方だった。
都内でも個展や展示されていし、デパートで売られている値段は他の職人の器とは段違いの価格で販売されている。ところが、どこで展示されていようがいくらで売られているのか、当のご本人は興味が無いらしい。

また、バイヤーさんが大量に仕入れる後に毎回いくつも返品をしてくるらしいが、返品されることに対しても、器のどこが問題なのかなど気にしていない。

「我々は、芸術家とは違って数打ちの職人だからね」とおっしゃる。「芸術家は一点だけを残して他は割ってしまう。我々は、使ってもらうために作っているのでそんな事はしない。」と。
普段使いの器として使ってもらうために、数を打つ。陶器の知識も無い素人なので深いことはわからないが、素人目にみても、明らかに他の器とは違って飾り気がない。その分、素朴な美しさが際立ち触り心地が滑らかになっている。無駄のない造形は「数打ちの職人」でなければできない技術と思う。

帰り際、「だんなさん焼酎飲むの?」と聞かれたので、ハイと答えると、ご自宅の玄関の前まで付いてくるようにいわれ、ついていくと両手にすっぽりと収まるくらいの大きさの白磁の器を頂いた。絵付けのない丸い器だった。「この間バイヤーさんから返品されたものなんだけど、よかったら使ってよ」とのこと。何度見てもどこに問題があるのか検討もつかない。それどころか持った瞬間の手に馴染む感覚がとても気に入って、ありがたく頂いた。


翌年、一通の訃報があった。長いこと癌で療養しているとも伺っていたので心配していたが、訪れたときは草むしりをしていたし、工房では元気にたくさん話をしていたので、まだまだ大丈夫なんじゃないか、むしろそのまま病気を克服してしまって、またお会いできるんじゃないかと勝手に楽観してしまっていただけにショックだった。

真に一期一会の訪問だった。
 使い手のことを思って、ひたすらに数打ちすること。
 失敗にくよくよしないこと。
ほんの短い時間の中で、ものづくりのための大切なことを教わった。

あの時頂いた器は、我が家の家宝として、ただし棚に飾るようなことはせず、晩酌する際の器として今も大切に使わせていただいている。